JAPAN BRAZIL ART CENTER
 
 

2008年の意義

 
移民100周年。初めて実現する、日本人のための等身大のブラジル現代美術展

ブラジル現代美術を日本に紹介する企画なら、ここ数年の間に幾つか実現している。代表的なのは2004年夏、東京と京都の国立近代美術館で開催された「ブラジル:ボディ・ノスタルジア」展。物故者も含む9作家が取り上げられた。そのうちエルネスト・ネトとアドリアナ・ヴァレジョンは人気者で、日本の他の美術館などにも招待されている。もちろん、彼らのファンは既に世界中にいる。また、日本移民100周年を記念してサンパウロ近代美術館で開催された「ライフがフォームになるとき――未来への対話/ブラジル、日本」はブラジル21作家、日本18作家を取り上げたものだが、同じ日本側企画者によるブラジル現代美術展が「ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力」と称して10月から東京都現代美術館で開かれる。そこで紹介されるブラジル作家たちも多くは欧米で評価が高い。

紹介は結構だが、なにか根本的におかしいのではないか。例えば「ボディ・ノスタルジア」の企画者はこう述べている。「近年世界的な注目を集めているブラジルの美術が、日本において未だ本格的に紹介されていないのは残念なことです」。確かに残念だ。しかし、「世界的な注目」を条件にしかブラジル美術がわが国に紹介されないとしたら、もっと残念だ。日本人がいまだに、借り物の欧米人の視線でしか他国の文化を眺めることができないということの表れだからだ。誰による、誰のための展覧会なのか。

この「クリエイティブアートセッション2008/日本ブラジル交流展」に至ってほとんど初めて、日本人の目線でのブラジル現代美術の紹介が実現するのではないか。日本人ならどうして、日本人の血を引く美術家たちの仕事に関心を持たずにいられよう。本展参加の17作家の中でいえば、アヤオ•オカモト、ジェームス•クドー、キミ・ニイ、ホベルト・オキナカが先に挙げたような展覧会から無視されてきた理由は何なのか。彼らも「ブラジル現代美術」作家である。ブラジルの抽象絵画の歴史は、1世を含む日系画家抜きでは語れない。アメリカやフランスにも多くの日本人美術家が渡った。しかし、ブラジルほど彼らが美術界で重要な存在になりえた国はない。日本人の歴史上、最初で最後の現象である。この意味を、なぜ誰も理解できないのか?

本展の非日系の作家たちも、海外での知名度と関係なく、サンパウロなどで彼らと同じ日常を過ごす企画者たちによって選ばれている。いわば等身大の企画である。実は、こうした展覧会は全く初めてではない。93年秋、東京のヴァンテミュージアムで「ブラジルアートの今日」展が13作家を紹介した。その一人であったカイトは15年後の今回、どのような発展ぶりを見せてくれるだろうか。同じく出品していた大岩オスカールは、周知の通りこの春、東京都現代美術館で個展を実現させたばかりである。

大岩ばかりが日系作家ではない。エルネスト3世(ネトは「孫」の意味)、ヴァレジョンだけがブラジル現代アーティストではない。そんな当たり前のことを、改めて知るための展覧会である。

名古屋 覚(なごや・さとる=美術ジャーナリスト)